SHIN'S ESSAYS(エッセー集)
2002年 5月 20日 (月)
NHK「さくら」の中の異文化コミュニケーション(14)
■ NHKの新番組
あのドラマの中で起こる様々な事がらから日米の文化・習慣の違いをたくさん学ぶことができます。 そんな違いを18年間(アメリカと中米)に在住した体験を通して話していきたいと思います。
「『情け』から『出世魚』そして『曖昧さ』まで」
体育の桂木先生が日本人の「情」の問題を持ち出しました。さくらのことをけ なしながらも、さくらのように他人のことで悩み心配する人間が昔の日本には まだたくさんいたのじゃないかと言う場面 があります。ある人はそれを「お節 介」と言うかもしれませんが、別の人は「面倒見が良い」と言うでしょう。何 事にも陰陽(英語ではyin and yang)があるように、同じ現象を観察するでも常 に逆の立場があるものですね。
アメリカ人の考え方、行動、習慣などでどれくらい日本と違う部分があるのだ ろうかと興味を持ち調べ始めたのは、7,8年前。それを「逆文化」と名づけ て一つの逆文化現象に一枚のカード、というように集めていたのですが、気が ついたら100枚近くなっていました。
簡単に言えば、日本人とアメリカ人の発想は180度逆転しているということ なのですが、「よくぞ同じ人間なのにこれほど違った見方考え方があるものだ」 と驚き、新しいことをするたびに「ちょっと待てよ。この国では逆のことをす るかもしれない」と一応前もって友人に確認してから行動したり、発言するよ う心がけるようになりました。今のところお陰様で大失敗はありませんが、そ れでもまだまだ安心はできません。今回この連載を始めたのはこんなこともみ なさんにお伝えしたかったからです。
話をちょっと「情」に戻してみます。これに関しても日本人とアメリカ人では その捉え方が違っていて面白いものがあります。「情にもろい」、「情にほだれ る」、「武士の情け」など「情」という漢字は日本語の風景にしっくり溶け込ん でいます。
英語圏にももちろん情に対する言葉がありますが、日本と事情が違ってきます。 懐旧の「情」なら「sweet memories of the past」、懐古の「情」なら「nostalgia」、「親 の情」は「parental affection」となるでしょうし、夫婦の「情」なら簡単に「love between husband and wife」などとなるでしょう。そうそう、「武士の情け」だったら 「samurai-like mercy」で良いと思います。こんな風に英語には「情」に対する表 現はいろいろ別れています。ところが我らが日本語。「情」というわずか一つの 漢字でいろいろな意味とその状況が説明でき、ぼくたちは十分にそのいわんと する感情を理解できるのですから、面白いですよね。つまり、それほど日本人 は人の心の中に潜むオアシスとでも言える「情」という言葉を大事にしている 証拠なのかもしれません。別に外国の人に「情」がないということではないの で誤解の無いように。
一方、日米の食文化の中でその土地で生きていく上には重要と思われるものに 対して、一つの事物にいろいろな名称がつくことがあり、これまた面白い現象 です。例えば、四方を海で囲まれた国に住む我々にとって、魚は昔から貴重な 食料ですから一匹の魚にいろいろな名前がつくことはご存じの通りです。いわ ゆる「出世魚」です。
成長と共に魚の呼び名が変わるこの現象は英語にはありません。ブリが良い例 でしょうか。地域によって呼び方が異なるようですが、関東方面ならワカシ(ワ カナゴ)、イナダ、ワラサ、そしてブリと成長するに従って変わります。関西は モジャコ、ワカナ、ツバス、ハマチ、メジロ、そしてブリとさらに細かく「出 世」します。武士や学者が成人して元服すると、幼名とは違った名を名乗るこ とが習わしだった日本ですから、「出世魚」という概念にもうなずけます。
では、英語はどうでしょうか。実はあるのです。気がつかれましたか?魚では なくて、当然「出世獣」です(^_^;)。牛、馬、羊、ライオンなど動物の親 子に対する呼び名の違いです。
親牛は「cow」、「bull」なのに子牛は「calf」ですし(焼き印を押されていない子 牛はpoddyと呼ぶのだそうです)、親馬が「horse」に対して子馬は「colt」と か「pony」と呼びます。成長した羊は「sheep」なのに子羊は「lamb」と似ても 似つかぬ呼び方になることはご存じの通りです。
特に牛の場合ていねいですよね。その身体の部分部分によって名称が違うのは、 まぎれもなく牛を食料とした食肉文化がそうさせたわけで、「肉」が食生活ある いは職業の中で重要な位 置にあった証拠でしょう。「ロース」とか「サーロイン」 など牛の身体には13カ所以上の呼び名があるそうですが、こんなことも異文 化の一端ではないでしょうか。
ぼくは小学生の時99%近くの国民がカトリックであるドミニカ共和国に住ん で、どっぷりこの宗教につかっていたことがあります。全寮制のカトリック学 校だったので、礼拝が毎日あり宗教がらみの祭日が毎月平均数日ありました。 その時感じていた西欧の神の「救い」と日本に帰ってきてから知った仏教の「救 い」が言葉としては同じ「救い」でも、どこか違うのです。自分では理解して いたつもりですが、こうやって文章にするとまだうまく表現できず、自分の勉 強不足が露呈します。あえて簡潔にと言われれば、西欧の神は父性の厳格な神 を、仏教には「母性」、つまり優しさを感じます。文化・習慣、そして言語はこ ういうところから大きく影響されるのだろうと思っています。
こう考えてみると、仏教の影響が大きい日本人の「曖昧さ」は「母性」につな がるのかもしれません。つまり、西洋の『父』は自分が創造した人間に厳格に イエス、ノーをせまり、アジアの『母』はほほえみでじっと見守ります。そこ には西洋の『父』のような気迫はありませんが、「あなたを信用していますから じっくり考えて答えを出しなさい」という雰囲気を感じます。そんな一種の 「間」が西洋の人たちには「曖昧」と映るのかもしれません。
確かに、この曖昧さは世界には通用しにくいものですが、人間として生きてい く上には必要不可欠なものですよね。西欧のまるでコンピュータの「0」「1」 のように「イエス」「ノー」をせまる文化に対し、日本のそれはこの「曖昧さ」 のおかげで一種の「あそび」あるいは「余裕」が生まれてきます。
アメリカ人は車のハンドルや架橋設計等にこの「あそび・余裕」が必要だと分 かっていても、精神文化の中にこれが日本より少ないのは面白い現象ではない でしょうか。それがために、アメリカ社会は話し合えば簡単にすむようなこと でもすぐ裁判ざたにして白黒決着したがるのは、そんな精神文化の違いから来 ているのではないかと最近特に感じ始めました。
コンピュータにまつわるこんな話があります。ファージー理論(fuzzy theory)と いうアメリカで開発された有名な理論のことです。これは「0」「1」だけでコ ントロールされるコンピュータの論理回路の中に、「イエス」でもなければ「ノ ー」でもない「曖昧」な、つまりグレイエリアを持ち込んだ優れた理論でした。 ところが、アメリカではこれはまったく流行りませんでした。もともと「曖昧 さ」を受け入れない文化ですから、その意味が良く理解できなかったようなの です。
オレゴン大学でもファージー(fuzzy)理論のクラスがありましたが、人気が無 くてすぐになくなりました。ところが、日本人にはこのfuzzyなアイデアはよく 理解できて、電車や掃除機、洗濯機に使われているのはご存じの通 りです。
とにかく、アメリカはなんでもはっきりしないといけない国ですから、色にし ても派手な原色を好む傾向があります。それに対して日本全体の色は「お茶漬 けの色」。ハリウッド映画の多くが正義と悪を対比したものですし、西海岸の食 料品は全般的になんでも甘くなり、中華料理や日本料理でさえもアメリカ風に やや甘めになります。
「お茶漬けの色」で思い出しました。脂っこい、昔風で言うとバタクサイもの を食べた後や酒を飲んだ後のお茶漬けの味。最高ですね!日本人に生まれて良 かったなあーと感じる瞬間の一つです。うーん、変なオチになりました。
NHK「さくら」の中の異文化コミュニケーション(14)